どうもしゃけづです。
今回の記事は肯定と正当化について考えてみた記事です。
自分を否定しない2つの生き方
自分を否定しながら生きなければもう少し、楽に生きれるのかもしれないと思います。
自分を否定しない生き方。2つあります。
「肯定する」もしくは「正当化する」という似て非なる生き方です。
肯定の意味は
(述語とそれに係る要素とで表される意味内容を)そのとおりだと判断し認めること。「―文」。一般に、同意すること、価値があると判断すること。
正当化の意味は
ある物事や自分の言動などを、正しく道理にかなっているようにみせたり、理論づけたりすること。
「自分を否定しない」という観点から見れば両方違いはありません。
ですが、ニュアンスが異なります。
肯定は今ある事実を認める。と言うプラスともマイナスとも言えない意味も含まれています。
しかし、正当化は今ある事実を認めず捻じ曲げるマイナスが大きい行為です。環境や他者へ原因を求めることで自分を傷つけない方法です。
正当化を行うと何が起こる
正当化も時には必要です。
しかしその行動を生きているうちに何度も、毎日行い続けるのは、非常にまずい行動なのではないかと思います。
なぜなら時として、正当化は自分や相手までも傷つけたり、それ見ている人を不快に思わせてしまうためです。
例えば、
・今こんなに不幸なのは親や学校に恵まれていなかったからだ。
・今自分が金を持っていないのは会社が儲かっていないからだ。
・今自分が貧乏なのは日本の政治が悪いからだ。
・自分が失敗したのはあの人がちゃんとチェックしていなかったからだ。
私が実際に思ったことです。根っからの聖人でない限り、何かしらの形で誰しも思ったことはあるのではないでしょうか。
誰かを落として、現状維持する自分を良しとする。これが、正当化です。いやむしろ、自分と他人どちらも下げてしまっているかもしれない。
しかし、正当化したところで、周りは動き続けます。環境は変わります。
自己を正当化しても何も進んではいかないのです。愚痴をぶつぶつ言いながら、燻っているだけです。
ポジティブにもネガティブにもならず事実を認めること。
肯定は、事実を見つめ、今を認めることです。誰かを落とすのでも、変にポジティブになって自分を上げるでもありません。
只々、自分を認め受け入れる。
それが肯定です。しかし、肯定さえしてしまえば、愚痴を言う時間は大きく減ります。自分を認め、愚痴を言わなくなった。そうしたら、何もすることが無くなります。暇になります。
そこで手に入れた余裕。その余裕を使って現状を良くできるような行動をできるか。それともまた、何かを下げるために余計な時間を使うのか。ここが勝負の分かれ道なのかもしれません。