「その人の辛さはその人にしか分からない」と、個人的には思っています。
それは少し悲しい思考のような気もしています。
しかし、その人が経験した辛さは、どのような手段を使っても完全には共有できないものであると、私はこれまでの短い人生でそう感じてきました。
本当はそうではないのかもしれませんが、今回の記事では思ったことを書きます。
2つの立場がある。
まず、AさんがBさんに自分の持っている悩みを相談するとします。
その場合、Aさんが「相談者」Bさんが「相談を受ける側」となります。
Bさんの立場は1人だけではなく複数人いる場合もあると思います。
また、Aさんが伝えようとするのは「相談」ではなく「この気持ちを理解してほしいという訴え」の場合もあります。
「その人の辛さはその人にしか分からない」
というのは、
「Aさんの辛さはAさんにしか分からない」
ということです。Aさんの持っている不安や悩み、葛藤というのは、どのような形でBさんに伝えたとしても完全には理解してはもらえないものだと思います。
こんなことを思った根拠は私自身の経験からです。
この記事をご覧になっている皆さんにも、Aさんのような「相談者側」として、Bさんのような「相談を受ける側」としても経験がある方は多いのではないでしょうか?
ここからは私の「相談者側」と「相談を受ける側」としての経験を書いてみたいと思います。
悩みや不安を抱える側として
このブログをご覧になると分かると思いますが、私は「複数人での食事が苦手」であったり、「尖ったものが苦手」であったりします。
これは、私が小学生の頃から悩んできている症状でもあります。
この悩みを生きてきた中で誰にも相談しなかった訳ではありません。
親や友人に悩みを相談したり、訴えたりしたことは何度もあります。
私にとってその問題は重要度の高いものでした。
しかし、相談しても返ってくる返事は
「そんなに支障はないでしょ」とか「確かにそういうことあったかなぁ?」とかその場限りの対応だけです。
言葉に表しづらいですが、
「どんなに訴えても相手はその深刻さ辛さを本当の意味で解ってくれない」
空を切っているような感じで、話がかみ合わないような感覚に毎回毎回苦労した覚えがあります。仲が良かったり、家族だとしてもこのような反応が返ってくる。
それは当時、絶望以外の何物でもありませんでした。
これは、心療内科や精神科の先生だったとしても結局のところ同じだと思います。
たとえ、「相談者にどのようなことが起こっているのか」という部分を理解しても、「相談者がどの程度辛いと感じているか」という部分についてまでは理解しきれないものなのだと感じます。
相談・訴えを受ける側として
大学時代、災害で大切な人を失った遺族の訴えを聞く機会がありました。
目の前で、遺族の方が語り部として当時の悲惨さ惨さ、どのような判断を下したのか、どのように思ったのか。
そういった思いを話してくださいました。
話を聞いた時のショックは確かに大きかった。
しかし、どんなに訴えられても
「本当の悲しみや思いを分かることができない」
そう思いました。
分かろうとしても分からないのです。大切な人を災害で失ったその気持ちや当時の悲惨さを涙ながらに訴えられても、完全にイメージが付かないし、どれほど辛いかも分からなかった。
映像を見ても伝わってくるようで伝わってこない。そんな感覚に陥る。
だって、その話を聞いて帰った後、私は普通に生活しだすわけですよ。
夜ご飯美味しいなとか、動画更新されてるとか、そんなこと思いながら。
そうやって相談や訴えを聞いた後、平然と元の生活に戻る。そんな奴がその人の辛さを本当の意味で分かっているはずがないでしょう?
結局のところ、「辛さは本人にしか分かり得ない」そう思います。
似た経験をした人であれば一応わかっては貰える
「その人の辛さはその人にしか分からない」
記事中で散々繰り返していますが、同調してもらえる場合があることは確かです。
それはどのような場合かというと、「相談者と似たような経験をした人」です。
上の経験に当てはめれば、同じような症状や悩みを持っている。同じような経験で大切な人を失った。
こういった経験をした人に、相談や不安を訴えればもっと相談者の気持ちに寄り添ってくれると思います。
分かってもらいたい場合、そういったコミュニティで相談してみるのも一つの手なのかもしれません。
しかし、この場合でも全く同じ経験をしたわけではないので、その人たちですら相談者の辛さを完全に理解はできない。また、相談される側になったとしても同じことが言えると思います。
やはり、結局のところ、どれ程辛い思いをしているのかということを他人に完全に理解してもらうことはできないのだと感じます。
たどり着いたのは。
相談しても相談してもわかってもらえない。訴えても真の意味でわかってもらえない。
そんなことを繰り返しながら私がたどり着いたのは、
一種の諦めと開き直り
なのだと思います。
まあ、確かに。自分の辛さを完全に理解してもらったり、人の辛さを完全に理解したり。
そんなことができるのは、人の心が読める能力の持ち主くらいなものです。
しかし、そんな人は世の中何処を探してもいないでしょうし、現実的ではありません。
多分。1~10までわかってもらいたいという願望は相当に贅沢な要望なのだと思います。
しかし、その開き直りと諦めがあるからこそ、私は相談する際にその人に対して過度に期待することはありませんし、相談を受ける側になったとしても簡単に「分かる」なんて言葉は使わないようになりました。
結局は自分にしか分からない物なのですから。
だからこそ、その不安や悩み・葛藤というのは最終的に自分の中で何らかの形で昇華させてあげるしかない。
不安や悩みをわかってもらえなかった・わかってあげられなかったとしても不必要に落ち込む必要は無いのだと思います。
あとがき
「その人の辛さはその人にしか分からない」そう思う場面はこれまでに何度かありましたが、文章化でできずに何回か忘れたり思い出したりを繰り返していました。
最近もそう思うことがあって、この記事を執筆するに至りました。
今の世の中。インターネットを通じて様々な情報を文字として、画像として、動画として、疑似的に体験できるようになりました。
しかし、「百聞は一見に如かず」のように、実際に経験して見なくては本当の気持ちが分からない事柄は多く存在します。
これは、辛いことだけではなく、感動や喜びという感情にも当てはまることなのだと思います。
映画を見た人にしか分からない感動。山頂までたどり着いた人にしか分からない喜び。それに関しても当人にしか分からない。
だからこそ、相手の気持ちに少しでも近づきたいのであれば、経験するしか方法が無い。
そう、思います。
辛いことは経験しなくても良いと思いますが、感動や喜びと言ったものは進んで経験できれば良いですよね。